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−和歌山県の橋本・伊都の発展につくした−

応其上人
応其上人の歩み
1537年
 応其上人(おうごしょうにん)は、近江国に生まれた。
1573年
 世のはかなさを知り37才の時、高野山で出家した。出家した後、日斉房良順
 
 (にっさいぼうりょうじゅん)と名のり、苦行を積み12年、3年で高位につ
 
 いた。
1585年
 ある日、高野山に太閤 豊臣秀吉から書状が届けられた。その書状は、領土を
 
 減らす、武器を取りあげるという内容だった。
 
 後に、応其上人は木食上人(もくじきしょうにん)と呼ばれ僧侶から相談され
 
 た。
   
 
 木食上人(もくじきしょうにん)
 
 応其上人は、出家した後、13年間五穀(米、麦、アワ、マメ、キビ)を食べ
 ずに、木の実や野菜を食べ、ひたすら仏教の修行にはげんだのでそう呼ばれた。
 
   
 
 応其上人は考えた。断れば、根来寺(ねごろでら)のように太閤に攻められ焼
 
 かれてしまう。たとえ領土を減らされて、武器を取りあげられても生き残る方
 
 を選ぶべきだ。
 
 後、応其上人は高野山の使者として太閤 豊臣秀吉を訪れた。
 
 秀吉は上機嫌で、応其上人の為に高野山が成り立つようにすると言った。
   
 
 (応其上人と、秀吉は武士の頃、知り合いだった説もある。)
   

1587年

 応其上人、51才のときに古佐田村(こさだむら)の崇福寺(そうふくじ)を
 
 再興し、応其寺(おうごじ)と名づけ、古佐田を高野往還(こうやおうかん)
 
 の為の宿舎にした。
応其寺
 
 又、応其上人は地域の発展には道や橋は必要だと発し、紀の川に高野山への交
 
 通の便利をはかる為に橋をかけた。橋本(はしもと)という地名は、ここから
 
 誕生した。
 
 (橋は、3年後に流失したそうです。)
   
 
 又、応其上人は船で運んできた塩を売る塩市(しおいち)もひらいた。
   
 
 永代諸役免除(えいだいしょえきめんじょ)
 
 応其上人は、秀吉に許可を申し出て、塩市に税をかけない永代諸役免除を得た。
 これにより橋本の塩市は大きく発展した。
 
   
1590年
 応其上人、54才のときに農業の大事さを思い、平谷池(へいだにいけ)、岩
 
 倉池(いわくらいけ)、引の池(ひきのいけ)を改修した。
 
 人々は水が豊かになって、米がたくさんとれると喜んだ。
稲穂
   
1595年
 秀吉に謀叛(むほん)の疑いをかけられた豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が高
 
 野山に来る。応其上人は、罪を軽くするよう秀吉に願い出るが、秀吉の怒りは
 
 とけなかった。
 
 応其上人はこのままでは高野山自体も危ないと思い、秀次の処分について処刑
 
 派にまわった。秀次は高野山にて切腹となった。
   
1598年
 秀吉の死去。応其上人は、太閤とつながりの深かった私がいては高野山にとっ
 
 てよくないと思い、故郷へ帰る決心をした。大阪方の将来に不安を感じ身をひ
 
 く。
 
 
1601年
 故郷、近江国(滋賀県)の飯道山(はんどうざん)にこもる。
   
1608年
 応其上人、死去。
 
 応其上人は、高野山を秀吉の手から守り、伊都地方の発展に尽くした。
 
 人々は、応其の名を地名などにして残した。
応其上人
メモ
 ・応其寺(橋本市)
 ・応其上人の記念碑(かつらぎ町、妙寺、畑谷池)
 ・応其小学校(高野口町)
  高野口町には、応其という字(あざ)が今もあります。以前は、応其村という村もありまし
  た。応其小学校の校庭には、応其上人の碑があります。 
 ・平谷池記念碑(橋本市)
  南馬場と清水の村人たちが応其の業績を永世にたたえる為に建立した。
   
   
この文章の内容は、伊都振興局発行を参考にしたものです。

   
−小田井(用水路)をつくった−  

大畑才蔵
大畑才蔵の歩み
1705年
 紀州藩は財政に苦しんでいた。藩主の吉宗(22才)は、幕府からの借金(十
 
 万両)をどうするかを考えた。このピンチをのりきるには農業収入を増やすし
 
 かないとした。
   
 
 なぜそんなに借金があったのか
 
 吉宗の兄は将軍の娘と結婚したためお金がかかったことや、江戸の屋敷の火事
 、父と兄2人の葬儀など出費が重なったからといわれている。
 
   
   吉宗は、紀の川 北側の米収穫が少ないのは曲がった川であり水が不便で米が
 
 とれないからだと知った。
   
 
 吉宗は、井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ 34才)に曲がった川をまっすぐに
 
 工事した経験をいかしてなんとか考えてくれと申し付けた。
 
 井沢は、学文路にいる大畑才蔵(おおはたさいぞう 55才)が適任者と吉宗
 
 に申した。
 
 才蔵は、小さい頃から計算が得意で人格もよく 22才から庄屋や役人の仕事
 をしていた。又、土木の業績もあった。
 
   
1707年
 才蔵は、藩から紀の川の水を北側へひく命を受ける。
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 才蔵は、第1期工事を23区域にわけて1/5000の勾配で進めようとし
 
 た。又、人数や工事日数などを計算し紀州藩に報告した。報告したのは、
 
 才蔵が初めてだった。
 
 作業に着手した後、山から流れる谷川はサイフォン方式で通すよう指示した。
   
 
 サイフォン方式
 
 川床をくぐらせて通す方法です。
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小田井せき
小田井せき
 
 四十八瀬川は、土地との高低差はあるし両側は固い岩の為サイフォン方式のよ
 
 うに下ではなく川の上に筧(かけひ)をかける方法をとった。
 
 その部分は、才蔵の計算により一本の支柱もない約30メートルの筧になった。
 
 
   
 
 筧(かけひ)
 
 水を通すための竹や木などのとい。
かけひ
 
 近代技術も驚いた通水橋
 
 才蔵のすぐれた工法の中でも特にすぐれたこの通水橋は、1965年の大改修
 の工事の時もここだけは手を加える必要がないと専門家も驚いた。
 その通水橋は、竜の渡井(たつのとい)と呼ばれる。
 
 
   
 
 1年足らずで約21キロメートルの第1期工事が完成。
 
 高野口町から那賀町の名手市場(なていちば)にかけて水の利用ができるよう
 
 になり、米の収穫は5000石増えた。
 
 又、第2期、第3期の工事で岩出町まで水の利用ができるようになり、120
 
 0ヘクタールの田がひらけた。
   
1716年
 紀州藩主の吉宗が八代将軍になったときには、紀州藩は14万両のたくわえの
 
 ある藩になっていた。
 
 治水の神様と呼ばれた大畑才蔵の功績が大きい。
   
1720年
 大畑才蔵、病気により死去。
 
 墓は、昭和44年4月 県文化財に指定された。
大畑才蔵の墓石
   
メモ
 ・橋本市の杉村公園内にある郷土資料館に大畑才蔵の製図道具が展示され
  ている。(折たたみ尺・墨壷・コンパス等)
   
   
この文章の内容は、伊都振興局発行を参考にしたものです。
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